オランダ黄金時代の画家レンブラント~その前半生~

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レンブラント・ファン・レインは1606年にスペインから独立を成し遂げつつあり、繁栄の階段を上っていたオランダで生まれた。

レンブラントは正にオランダ黄金時代に生きた画家である。

製粉業を営む中流階級の子で9人兄弟の末っ子だったレンブラントは、家族から大きな愛情と期待を持って、育てられることになる。
他の兄弟は家業を継いだり、職人になったりする中一人だけラテン語学校に通わせてもらっていることからも両親の愛情と期待が感じられる。

この愛情がのちのレンブラントを大きく支えることになる。

絵の道へ


順調に勉学に励みこれから大学で学ぶという時に、レンブラントは突如として勉学の道を離れ、絵の道へ進むことを決意する。

もちろん両親は反対したはずだ、大学まで通わせて、後々は法律家か牧師になってほしいと考えていたのだろう、当時のヨーロッパの市民階級としての一番名誉ある仕事だったのだから。

けれどレンブラントはその道には進まなかった。黄金時代を迎えようとするオランダ、その熱気は野心あふれる若者にどんな夢を見させたのだろうか。

若者の天性の関心は絵画と素描に向けられていた。

そしてレンブラントは両親を納得させ、両親の知り合いの画家に弟子入りするのであった。

たとえ、思い描いた道とは違う道に行こうとも、両親は才気あふれる末息子を最後まで愛し、支援し続けた。

レンブラントの画家としての道はここから始まったのである。その時若者は15歳であった。

 

ヨーロッパ経済の中心地へ


郷里の画家の工房で3年の弟子機関の間に、レンブランドは恵まれた天分と好奇心から様々なことを吸収し、めきめきと頭角を現していった。

その才能は誰もが認めるものであった。それから、学ぶのであれば最高の画家のもとで学ぶべきだという、両親の考えから、レンブランドはアムステルダムの人気画家ピーテル・ラストマンのもとに遊学するのであった。

最高の画家のもとで大きな薫陶を受けたレンブランドは、師のような歴史画家になりたいという志を故郷に持ち帰り、その才能を発揮し、見事な作品をいくつも完成させた。

当時のヨーロッパ経済の中心地であるアムステルダムに拠点を移した、レンブランドの名声は日に日に増していった。そんな折、彼のもとに名誉ある注文が依頼されたのであった。

著名な医師の教授が行う解剖の講義を受ける名士たちを描く、集団肖像画である。

集団肖像画は画家にとってその力量が試される、花形的仕事だった。

周りからの大きな期待をレンブラントははるかに超えていった、それどころか、今までの集団肖像画のあり方を変えるような作品を完成させたのだった。

そしてその絵によりレンブラントは当世随一の画家として世に知れ渡るのであった。

その名声は今なお私たちにも届いている。

 

「テュルプ博士の解剖学抗議」


集団肖像画はオランダでは100年近くの歴史があり、伝統から描き方に常識のようなものがあった。

それは依頼主であるモデルたちの顔をしっかり描写し、かつ均等に描くことだ。いわゆる集合写真のようなものが一般的な集団肖像画と呼ばれるものだった。

しかしレンブラントの「テュルプ博士の解剖講義」は今までの常識とは違い、映画のワンシーンを切り出したような、動きがあり。

随所に鑑賞者の興味を惹きつけるような工夫が施されていた。新しいことに挑戦しながら決して依頼者の機嫌を損ねないように配慮してある、そこがレンブラントのすごい所だ。

この絵を描いたときレンブラントは25歳だった、時代、才能、環境、そのすべてに愛された寵児の活躍は以後も続く、けれど最後まで順風満帆というわけではない。

多くの悲しみや苦しみが、のちのレンブラントを襲うことになる。

大きな仕事を成し遂げ、名声、富、地位を手にした25歳の彼にはそんな未来を、想像するうれいはみじんもなかった。

 

 

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